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[企業づくり]宇宙本位経営学の普及と援助

企業づくりコラム


  

現代社会の歪み
世の人々は、「いま何か狂ってしまった」と誰もが嘆く。われわれを取り巻いている風潮は、一見、変革とか規制緩和で一部分は確かに豊かになったが、喪失した部分も多い。

確かに、「まやかし・にせもの・錯覚」が横行し真実は表面にあらわれずに、人工的世界だけに裏面に存することが多い。そして人々は、何時の間に正常から異常へと流れて取りかえしのつかない失敗を演じていることが多い。 「時の流れだから、さからうことはね」と頭脳が汚染され、あらぬ方向、道に踏みこんでる昨今だ。まさにこれらの話を紹介する。(正法眼蔵随聞記 所収)

一人の敬虔な僧がいた。彼は金の佛像と仏舎利を持っていて、それを一つの箱に収めて、毎日礼拝していた。仏舎利はお釈迦さまの遺骨である。仏教徒にとっては尊い宝物に他ならない。 ところがある日、その僧の師である禅師が「お前が大事にしている佛像と仏舎利は修行の妨げとなる。捨てなさい!」といわれた。「それは天魔波旬(はじゅん)の作である」といった。僧は想った。天魔波旬とは悪魔のことで僧は憤激のきわみに達した。憤然として席を立った。「とにかくその箱の蓋を開けてみろ」と退出する僧に言った。そこで僧は箱の蓋をあけると、箱のなかには「毒蛇」がとぐろを巻いていた。

僧は大事で尊い、これ以上のものはないと思ったものが「毒蛇」だったとは、現代への貴重な示唆にとんだ話ではないか―。まさに錯覚なのである。間違い、見誤りをして習慣化すると、歪みとして扱うことは難しい。


無意識の裡
実際に付和雷同、人真似、流行に翻弄されている人工の世界のなかでは、本来、知覚作用からの錯覚・錯想が多い。

「実在とは、知覚されるかどうかということではなく、われわれが知覚するところのものだからである」とゲシュタルト心理学派の定義である。よく見かけているがあるが、は一緒同じ寸法なのに、大きく見えたり小さく見えたりする。因みに錯視理想は(ボケンドレフ錯視、同心円錯視、ツェルネル錯視、分割線錯視など)多数ある。

「物の距離とか大きさとか形についても誤りやすい」とはアランの「精神と情熱に関する八一章」の錯覚の章の冒頭で、「物の距離とか大きさとか形についても誤りやすいものだ。例えば、丸い鉛の玉と木の角柱とか、大きな木箱とかを持ってみると、いつでも一番大きいものが重いという先入観があるから期待した重さより軽く感じる」と。期待した重さより軽く感じるのである。

無意識の裡に、相互比較して軽重を予想しているのであって、大きな誤りを犯していたのである。 ところが、目隠ししてみると、先入観は消えて錯覚に陥らないですむ。(ここでは、ロールシャッハ、スイス心理学者は省く)


無自己錯覚からの脱皮は「自分学」
現在の自分は、生まれたままの自分ではない。幼児期の家庭環境、教育、社会生活での広義のさまざまな錯覚、錯視の情報を受け入れ、外部にさまざまな働きかけをし経験しつつある生き方がつくりあげている。 衣裳学じゃないけれど、人間の身に何枚もの衣裳をつけ飾りをつけ出す度に、いつわり、嘘がつくられたというが、はっきりと正確に理解したのではなく、自己錯覚の海に溺れてしまうのが常である。冷眼冷耳でも、一枚一枚の衣を自分で点檢するのを忘れがちである。

自分本位といっても、汚染されたものか、もとの正義を重んじたものかはわからない。 錯覚という濁りなき頭に立ち戻ればよいが、とかく人間は、錯覚人間になり切って、得意になっている人が多い。 他人がつくりだした習慣や制度を、何の抵抗もなく盲従している。あなたは「時の流れ」に流されてはいないだろうか。

例えば、組織のなかで、NO!といえずに、不義不正に黙してしまい、良心ある人はノイローゼになってしまう。 学校、両親の錯覚環境を脱出するには、聖職者の教員となって労働者教員から脱却することである。 また、教育再興には学校教員中心で運営されるべき、出来うれば塾とか試験地獄を錯覚地帯とすべきだ。

面白い話を某ビール会社社長と会った時、「入社試験よりも、面接する人を重視しましてね。こんな質問をした。"もしも上司から相手側にワイロ的金銭を渡して欲しいといわれたらどうする?"と尋ねると、一人は企業向上なら運びますと。もう一人はどうしたらよいかと机に伏して言葉を発しない、もう一人は不適切なものならば、私は運べません」といったという。

"自分の確立"を確かめたかったと社長はいっていたが、組織のなかでの先輩たちの惰性、「これまでの思いこみ、これまでのしきたりであり、みんなの意見だから」といったことに同調するかを知るためだという。 自分の意見がない人はいらない。本人にとっても不幸、思考回路の束縛から解き放った精神の自体をとり戻すことにある。

自己錯覚の特色は、例えば企業家でお金、かね、カネに突っ走る人であり、自己錯覚よりも自己喪失につながる。 常に自分の心の支配者となって、錯覚をとり払うことであり、「自分学」のキーポイントなのである。