台北の蒋介石氏の別荘を訪ねる
台湾の友人に誘われて、台北市の北の郊外、陽明山にある蒋介石氏の別荘「陽明書屋」を訪問した。
深い緑の山中に建つ二階建ての別荘は、1階がロビー、食堂、執務室、応接室、2階が夫妻の私室からなっている。ロビーには、マント姿の彼の肖像画が掲げられており、応接室にはアイゼンハワー元大統領の訪問時の写真がある。
孫文の遺品と写真等が展示されていて、「孫文の後継者、蒋介石」を誇示している。2階には、階下の肖像画の真上と思われる位置に孫文氏の肖像画がある。
居間と寝室のある部屋に蒋介石氏とその妻宗美齢氏の幼少から晩年までの生い立ちと業績を語る写真・遺品等が展示されている。この部屋に入ると私のような日本人にとっては、満州事変、国共内戦、日中戦争、援蒋ルート、台湾ヘの中華民国の移転等歴史で学んだことが走馬灯のように頭の中を駆け巡ることとなる。
「夷をもって夷を征す」を地で生きた氏の執念が屋敷中にみなぎっている。聞けば、市の中心地にある中正廟の棺は、将来、中国大陸に帰るため地上から3寸浮かしてあるそうだ。まさに面目躍如たるものがある。
慮溝橋事件後、彼が書いたという「抗日戦の検討と必勝の要諦(1938)」には日本の長所として「小ざかしいことをしない」「研究心を絶やさない」「命令を徹底的に実施する」「連絡を密にした共同作業が得意である」を挙げ、短所として「国際情勢に疎い」「持久戦で経済破綻を生ずる」「なぜ中国と闘わねばならぬか理解できていない」とあるそうだ(立命館北村教授)。
台湾での身分証の学歴欄には「日本国陸軍士官学校卒」(入・卒は真偽不明、日本の予備校で勉学は事実)と書き、新潟県高田の砲兵連隊で約1年間隊付実習(事実)したことがあるだけに、当時の日本及び日本軍人がよく分かっていたと言わざるをえない。
指摘の国際情勢への音痴ぶりは、東京裁判で、九カ国条約について問われた陸軍大臣までつとめた畑俊六が知らなかったというから驚くべきことだ。
ワシントン会議(1921-1922)において米英日仏伊の主力艦の保有割合を決めると同時に、太平洋における各国の領土に関する権益を相互に尊重する約束で日英米仏の間に四カ国条約が結ばれ、その結果として日英同盟が破棄された。併せて中国を含むすべての参加国の間で九カ国条約が結ばれ、中国の領土保全・主権尊重・機会均等・門戸開放が決められたのである。
「坂の上の雲」にある日露戦争時の「戦争指導と外交の一体」を見せた賢い日本人はどこに行ったのか……。顧みると、日清・日露戦争を戦いぬいた当時の政治家、軍人たちは共々よく国際法を熟知し、国際情勢をよく知っていたということである。
幕末に欧米列強と結んだ不平等条約を改正することが当時の最大の課題であると認識していたことによろう。蒋介石氏の山荘にあってしばし切歯扼腕したのである。
日は昇りやがて翳りの道への日英同盟20年
日英同盟の締結の事情については歴史書(山川出版、歴史家半藤一利氏、渡部昇一氏の所説等)に詳しく述べられているので、今更述べるまでもないが、当時の日本が政治体制の近代化を終え、欧州列強とパワー・ポリティックスの外交を繰り返しながら強国にのし上がる過程をみることができる。
同盟の後半は、「国益よりも道義を優先するアメリカ外交(ウイルソン主義)」に直面して戸惑い、日米対立に至る様子をみることができる。この対立はかすがいとなる英国が離れた時決定的となった。今日、日米同盟の重要性を考える上で、重要な参考になるので冗長を覚悟で振り返る。
三国干渉後日本は政治体制を近代化し軍備の強化につとめ、パワー・ポリティックスの道を歩んだ。
伊藤博文はプロシアのグナイストから教えを受け、統治権を総覧する天皇制を柱とする大日本帝国憲法を起草した。同行した山縣有朋はオーストリアのシュタインから、国防政策として、主権線と利益線について学んだ。
憲法は1889年に発布され、それによる第1回衆議院議員総選挙が1890年に行われた。第1回帝国議会(1890)の山縣総理の施政方針演説に、「列国の間にあって一国の独立を維持するには、単に主権線を守護するのみでは不十分であり必ず利益線を保護致さなくてはならぬ」とある。この利益線とは朝鮮半島のことであった。
日清戦争後、三国干渉により遼東半島を返還させられた。日本国内では、それを主導したロシアに対する憤激の声は充満していた。
ビスマルクの国益追求のパワー・ポリティックスを学んだことのある外相陸奥宗光は、その書蹇蹇録において「外交にはパワーがなければ国益の増進は困難」という旨を記している。
中国で義和団事変(1900)が勃発すると、居留民保護のため、日露独襖英仏伊米の8カ国は共同出兵した。連合国軍3万6000人中、日本軍は2万2000人だった。これは英国が南ア戦争中で大兵力を派遣できず、地理的に近いロシアが大兵力を派遣することを嫌って日本に要請したことによる。このころ、日本は国家予算の半分近くを軍事費に注いで、軍事力の増強を図っていた。
アジアにおける日英の国益が一致して日英同盟協約を締結
義和団事変が収まったのちもロシアは十数万の大軍を満州に留め、事実上満州を軍事占領し、清国と露清密約を結んで更に南下する気配を見せていた。イギリスはバルカンや東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたところであった、日本国内で伊藤・井上らの満・韓交換による日露協商論が起こるや、イギリスはそれを恐れて日英同盟論(桂首相・小村外相)を歓迎し、1902年1月に日英同盟協約が成立した。
桂首相は「東洋の平和と帝国利権の維持拡張」が目的であるとした。その真の狙いは、日英同盟が日本の「利益線」たる朝鮮半島に影響力を及ぼすロシアとの戦争に備えるためであり、同時に日英それぞれ自国の東アジアにおける権益とその確保のためにとる行動を承認しあうものであった。これは日本が欧米列強と結んだ初めての対等条約であり、英国にとっては勢力均衡政策による「栄光ある孤立」を捨てるものとなった。
国家の命運を掛けた日露戦争の勝利は、戦争指導と外交の一体の賜物である。また英国・米国の支援の力が大きい。
高橋是清は外国債による戦費獲得のためロンドン、ニューヨークを駆け巡り、金子堅太郎はハーバード大の学友セオドア・ルーズベルトに講和仲介の依頼のため渡米した。大本営には、軍部のみならず伊藤博文らの政治指導者も臨席、軍人では東郷平八郎や乃木希典、明石元二郎らがそれぞれの立場で活躍した。
ポーツマス条約における小村寿太郎の活躍等、戦争指導と外交の一体となった国家の命運をかけた戦争だった。同盟国イギリスは戦費・軍備両面で支援し、アメリカは日本に好意的に講和の仲介をした。アメリカの意図は、ロシアが満州を独占的に支配するのを警戒したためであったとはいえ、大きな支援となった。
また日本の勝利はアジア諸国の民族運動を刺激した。孫文による中国同盟会の結成(1905)、べトナム、インド、イラン、トルコの民族主義運動に影響を与えたのである。冒頭の蒋介石と孫文は1910年東京で会っている。
日英の協調関係の冷却化と台頭する米国との摩擦、米中の接近
日英同盟協約は、1905年には適用範囲をインドまで拡張し攻守同盟の性格を持った。しかし1911年の改定ではアメリカに対する除外例を設けるなど協調関係が次第に冷却化していった。
これは、日本が日露協約を結んで満州の権益について取り決めたことが、イギリス・アメリカにとっては国益に反する行為ととられたのである。
また英連邦国のカナダが、地続きのアメリカと対立することを恐れ、イギリスに働きかけたこと等が考えられる。ここにきて、日本の強国化、特に満州ヘの勢力拡大は、アメリカの門戸開放政策や中国のナショナリズムと直面することとなる。
1910年日露の協調に対抗して米・英・仏は清国に対する4国借款団を結成して支援した。いわゆる経済好調の新台頭国、アメリカの「ドル外交」の始まりである。アジアの情勢は日米の対立、米中の接近と新たな展開に変化した。