「音楽の都ウィーン」。響きは素敵だ。街自体も古き良きものと現代が上手に共存している。日本では一刻も早く、より技術性の高い良質なものを創り出そうと人が行き交い、混じり合い、反撥し合っている時に、ウィーンでは昔の古き良き伝統をいかに正確に教え、受け継ぎ、保つかに頭を悩まされる。「オーストリアだけだよ。楽器一つも弾けないのに、音楽学を勉強できる国は」と、オーストリア生まれの指揮者が笑いながら言った。
本場で道を深めること
実際この国に来てから、演奏者の感性だけで奏でられたものを聴いても、ちっとも感動しなくなってしまった。逆に、教科書通りの四角四面な演奏の方が余程きちんと勉強してあるし、脳に刺激を与えてくれる。そう、聴衆は「心」だけではなく、「頭」と「体」で音楽を聴いているのだ。「音楽は全ての壁、国境をも越える。」では、音楽をやっていれば、世界に通じると思いきや、現実はそんなに甘くない。
音楽の伝統を研究し、努力すれば他の外人よりも綺麗な音で演奏できるようになり、「評価」される。そこまでは、努力と才能があれば皆ある程度できるのだ。そして満足して、良いのかも分からずに、「学べるものは学んだわ」と日本へ帰国する。
しかしながら、一つの道を本場で深めようとすればするほど、難題は襲い掛かってくる。これまでは綺麗で大きな声で歌っていれば良かったものを、発音から直され、上達すれば今度は言葉に意味をもたせ、更にはニュアンスを自分なりに付けなければいけない。これは、歌のことばかりではない。楽器全てにおいて当てはまるのだ。
大学のピアノの先生が、「日本人は面白い。言葉は全然理解しないのに、メロディーを体感し、独自のニュアンスを生み出す。でもね、趣味程度だったらそこまでで良い。要はその先で、一つのメロディーに自分なりに歌詞を付けて、そのイントネーションで曲を弾けなければいけない。例えばね…」と、その当時私が習っていたベートーヴェンのピアノソナタのワンフレーズに「なーんて、今日は天気が良いんだろう!」とドイツ語で歌詞を付け始めたのだ。面白い事に、それまでただ綺麗に鳴っていた音楽が、突然一つの生き物となって、意味を持ち、動き出したのだ。
その昔、まだ出版物の内容に規制があった頃、音楽は言葉として使われていた。今までただ「こんな感じ」と奏でていたものを言語に置き換えてみると、音楽の内容がいかに具現化されるか説明がつく。こういうことを要求されるウィーンで、ドイツ語の分からない人間がシューベルトの「ます」を歌ったり弾いたりしたら、どれだけ滑稽だろう…。
文化の壁に挑戦する
では、語学が堪能でない者は、音楽をやっても無駄なのかというと、そういうわけでもない。心がこもっていれば、伝わるものは伝わるのだ。こちらでも、日本人の音楽をメロディーで感じとり、独自のものを創り上げていく才能は認められている。
私達には、綺麗な音と純粋なハーモニーで演奏できる「感性」と「情緒」がある。しかしながら、そこにはオーストリア人が赤ん坊の頃から聞き慣れ、話しているドイツ語、またその言語のリズム感が欠けている。
残念ながら、心情を伝えるのが長けている人ほど、言語力が足りなくて、プラスアルファの成果が出せずに日本へ帰ってしまう。惜しい、実に惜しい。中には、「若い頃からこちらにいれる人が羨ましい」と、嘆く人も居る。確かにその点、私は非常に恵まれている。それでも、「これが日本で勉強できていたら…」つい、そう思ってしまうのだ。
「文化の壁」の要因はその他にも沢山ある。そして、私は無謀ながら、その壁をいつかは突き破ってみたいとあらゆることを試し、模索中である。