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「国づくり人づくり国民運動」で、私が担当するのは、党派を超えて政治家のあり方に警鐘し、育成していくことである。CMF運動の「政治講座」が五〇回となった。何が大事かと問われたら「歴史に学ぼう」を挙げる。

日本の政治理念の原点聖徳太子
日本人の政治理念の原点を誰れに求めるか、これを考えてみよう。
私は「十七条憲法」を制定し、日本の国家統一を実現した聖徳太子に求めたい。太子が活動した時代、六世紀後半から七世紀初頭にかけて、国際情勢も国内情勢も、現代の日本が抱えている状況と酷似している。  

この時代、東アジアは中国全土を統一した隋王朝が強い影響力を持っていた。朝鮮半島では諸国が覇権を争って混乱していた。現代、中国が覇権国となり韓国と北朝鮮の激しい対立の構造とそっくりである。
 
当時の日本は、天皇家による国家統一が決して安定していなかった。天孫降臨に連る豪族、古来在住の氏族で天皇に帰順した集団などが、入り混り葛藤をくりかえしていた。また、日本が統一される過程で、大陸から新しい文化や技術を持ち込んだ渡来人がいた。  

聖徳太子は敏達三年(五七四)、用明天皇の皇子として生れ、推古三〇年(六二二)、四九歳で生涯を終える。祟峻天皇が暗殺されて女帝として叔母の推古天皇が位につくや、摂政に就任する。推古元年(五九二)である。
 
摂政としての課題は、氏族の争いで混迷する大和国家を日本国家として統一することであった。その理念と制度が、「冠位十二階」(六〇三)と「十七条憲法」(六〇四)等の制定であった。日本独自の土着の文化と大陸の文化を調整し、日本独自の文化を形成、独立した国家として、東アジア諸国との正常な外交関係を樹立したことである。

日本人の霊性の覚醒を
千四百年の歴史を経た平成十二年(二〇〇〇)、日本国の国会に「憲法調査会」が設置された。米国占領軍の指導で制定された現憲法は、五〇年を経過し国内外の大きな変化の中にある。私は自由討議で、次の趣旨の発言を行った。

①二一世紀となり、工業文明社会から情報文明社会へ激変した。十八世紀につくられた近代憲法の諸原理の発展的見直しが必要だ。 ②敗戦後の日本人は、精神と思想が分裂状態にある。新しい憲法を創り、多様な思想の調和による統一国家の形成という政治行為が、新しい憲法の制定である。 ③現代は、聖徳太子が活躍した時代背景と、国際情勢も国内情勢も酷似している。「十七条憲法」の制定から「大化改新」に至る歴史に学ぶべきだ。  

この私の意見に、朝日新聞は「時代錯誤の発想だ」と報道した。不見識さに驚くばかりだ。最近欧米では聖徳太子が始めた日本の改革を、世界の五大改革の一つに入れるべきだとの評価をされている。  
私は、朝日新聞編集局長あて、抗議文を出したところ、社説で実名を挙げて「権力による言論妨害」と指摘された。マスコミ関係者がこのような歴史観では、国づくりも人づくりも不可能と思う。  

「十七条憲法」は、聖徳太子に代表される改革派により、激しい政治斗争の中で制定されたものだ。その基本的考え方は、古来の神道(自然崇拝等)を基礎として、仏教の倫理観、儒教の統治論、そして人間のあり方については、道教や景教(古代キリスト教)からも影響を受け入れている。  

聖徳太子の最大の功績は、世界中の信仰・精神・思想などを、ユーラシア大陸の東の端に在る日本列島という場で、融合し調和し統合したことである。この発想こそ、現代の資本主義の変質・崩壊の混迷の時代に、日本人が新しい文明をつくる旗手となるノウハウである。「日本人の霊性の覚醒」こそ、国づくり人づくりを成功させる根本である。